Thursday, January 22, 2015

なかなおり②

私たちの仕える神は、
火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。
ダニエル書3:17
昨日の朝、賢人に起きた赦しの証について書きました。
今朝もそのことに、畏敬の念を感じながら、主の御業の計り知れなさについて思いをめぐらしました。
この半年の間、私が彼のためにしたことは、祈ることばかりではありませんでした。
私は彼に、もうあきらめてもよいのではないかと、何度か忠言し、そして彼は実際、数回、私とはなの通う教会に来てくれました。
週日の夜の高校生のための集会にも連れ出してみました。
けれども、彼はそこには留まることをせず、自分の居場所へとひとりぼっちで戻っていきました。
私の目にはそれは本当にひとりぼっちにみえたのです。
でも、彼は知っていたのね。
ひとりじゃなかった。
神は、いつも賢人のかたわらに立っておられた。
賢人を包んでくださっていた。
親とは、本当に無力でおろかな、ただ生んで側にいるだけの者だと思います。
親の愛とは、まさに本能であって、授かりっぱなしの賜物です。
神を信じること、神を信じぬくこと。
見えるものではなく、見えないものに希望を置くこと。
私はわが子にすら、これをまだ教えることなどできません。
まずは、私が、私自身がそれを知らなければ、と思います。
しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。
私たちはあなたの神々に仕えず、
あなたが立てた金の像を拝むこともしません。
ダニエル書3;18