Friday, January 23, 2015

神に愛されるということ

ただいま、おつかれさまでした。
今週はお餅つきに明け暮れ、なんだかいつになく、疲れちまっているけど(どこ弁だ?)、ちょっとでも書いておきたいなっと思って、ラップトップを開きました。
先週の日曜日に、教会の図書から借りてきた本、『愛されている者の生活』Byヘンリ・ナーウィン の中の文章、最初の一章のほんの始まりのところを読んで泣いたんだ。
夕べ。
これは書いておかなくちゃって思ってさ。
でも、今は、あまり、かたい話をかたいことばで書きたい気分ではないから、私のことばで書くね。
ヘンリに言わせると、神に愛されている者とは、つまり、とりあげられ、祝福され、裂かれ、与えられる者とさ。
これを聴いて、びっくりして、泣きたくなる人、一杯いると思う。
そう、それはまるで正餐式のパン。
でも、神に愛されるってそういうことなんだって、その一言でわかっちゃって、泣いた。
ヘンリなんか大きらいだって思いながら、悲しくて、くやしくて、うれしくて、そして、泣いた。
だったら、私すごく神に愛されている。
取り上げられている。
祝福されている。
裂かれている。
与えられている。
もしかして、あなたも?
じゃ、一緒だ。
がんばろうよ。
愛されているんだよ、私たち。
神に、愛されているって、最後は裂かれて与えられるんだね。
知らなかったね。
でも、きっとだいじょうぶ。
だって、ほら、ひとりじゃないから。