もしあなたがたが人を赦すなら、
私もその人を赦します。
私が何かを赦したのなら、
私の赦したことは、
あなたがたのために、
キリストの御前で赦したのです。
Ⅱコリント 2:10
自分が刑務所のような場所にいる図を想像してみてください。
周りを見回すと、あなたが立っている場所からいくつもの独房の様子がうかがえます。
そこには、あなたが過去に関わった人々が留置されているのです。
なんだろう? |
この刑務所はあなた自身の心です。
この暗く、隙間風の入る陰鬱な刑務所が、日々、あなたの内側に存在しているのです。
しかし、すぐそばにはイエスが立っておられ、全ての収監者を釈放することのできる鍵をあなたに差し出しています。
あなたはイエスに協力する気になれません。
彼らから、あまりにも深く傷つけられたのですから。
立ち去ろうとして、ある事実にぎょとさせられます。
出口がありません。
囚われている他の人々全員と共に、あなたも閉じ込められているのです。
「決断する愛」より
赦しは生涯を通して、訓練させられる、天国へ行くためのレッスンだと思う。
少なくとも私の人生はそうでした。
そしてきっとこれからもそうだと思う。
時々、すごく難しくて、「むむむ、むりです!」と叫びたくなることもあるけど、キリストの鍵を受け取ることを、「むり」と言うことは、自分の罪の赦しも「むり」と言うことと同じと忘れずにいたいです。