キリストは、私たちのために、
ご自分のいのちをお捨てになりました。
それによって私たちに愛がわかったのです。
ですから私たちは、
兄弟のために、
いのちを捨てるべきです。
Ⅰヨハネ 3:16
人生は、厳しく辛いものとなり得ます。
けれど、私たちは大抵、「自分の」人生が辛くなり得ると考えています。
自分がひどい扱いを受けたり、迷惑をかけられたりすれば、すぐそれに気づきます。
自分たちが辛く嫌な立場に置かれると、私たちはすぐにその状況を察します。
しかし、結婚相手が辛い状況であることに気づくのは、彼らが文句を言い始めてから、ということが多々あるのです。
相手が感じてりう痛みやプレッシャーは、自分が苦しんでいるときと同じように真に迫って来ることはありません。
しかし、愛が働いているときには、このようなことは起りません。
愛は喜んで犠牲を払います。
「決断する愛」
昨日書いた記事の中のひとつの思いに対する、神さまのダイレクトな応答です。
耳も、心も、痛みます。
問題は優先順位にではなく、私にとっての重要さと周囲のそのことへの重要さの違いでもなく、愛の大きさでもなく、ただただ、そこに私の愛がない、私の愛が働いていないという、それに尽きるのでした・・・。