Sunday, November 19, 2017

朝ごとに 11・19

しかし、愚かな議論、系図、口論、律法についての
論争は避けなさい。
それらは無益で、むだなものです。
テトス 3;9
私たちの一生は短い。
それで有益に過ごすために、それほど重要でない問題の議論に時を費やすより、むしろ良いわざに励むべきである。
双方が言いたいことを全部言い尽くして論争することによって、どちらの側も別に知識がつくのでも、愛が増すのでもない。
このような不毛な畑にいつまでも種を蒔いているのは愚かなことである。
聖書が沈黙している問題、神のみに属する奥義、意味不明な預言、人の定めた儀式、これらに関する質問はみな愚かである。
私たちのとるべき態度は、これらの愚かな質問をすることでも、またそれに答えることでもなく、全く避けることである。
使徒の教訓を守って、努めて良いわざに励むことを心がけるならば、私たちは価値のない不必要な論争に関心をもたず、より有益なことに従事することになるであろう。
C.H.スポルジョン 「朝ごとに」より
時々とても懐かしく思う
スポルジョンの「朝ごとに」をデボーションのガイドとして毎朝聖書を読んでいる世界中の私以外のクリスチャンたちに申し訳ないぐらい、毎朝、毎朝、私のためのメッセージです。(偉大なるキリストの教えを取り告ぐ説教者に、きっとみな私と同じ心で感謝しているに違いないけれど)
テトスのすべてを2回通して読みました。
決して簡単なことではないけれど、健康なクリスチャンでいるためにはあたりまえのことなのでしょう。
スポルジョンは、この言葉の後、本当に重要な質問とはこうだ、と前置きして問いかけてきています。
「私は主イエスを信じているか」
でも戻りたいとは決して思わない
私には子ども伝道の大切なミッションがあるから
「私は肉によらず、御霊によって歩んでいるか」
「私の語ることばは救い主の教えをあがめているか」
黙っていても、話しても、裁かれ、批判や責任の対象となりかねない、本当にこわいところに立っています。
気づかずにいたけれど、そういうことなのだと思います。
ピンの先なのにバレリーナのように爪先で立つことなく、飛んだり跳ねたりスキップしたり、自由で幸せな気もちでいられるのは、神さまのおかげでした。