「女が自分の乳飲み子を忘れようか。
自分の胎の子をあわれまないだろうか。
たとい、女たちが忘れても、
このわたしはあなたを忘れない。
見よ。
わたしは手のひらに
あなたを刻んだ。
イザヤ 49:15,16
私たちは神の誠実とその民の不信仰とのどちらが驚くべきものであるかを知らない。
神はこれまで、数え切れないほど多くの約束を守られた。
それにもかかわらず、次の試練が来ると私たちは神を疑う。
神は決して失敗されない。
ここには「わたしはあなたを刻んだ」とあって、「あなたの名前を」とは記されていない。
もちろん名前も刻まれているであろうが、それだけではない。
「わたしはあなたを刻んだ」のである。
このことばの含む完全性を見よ。
「わたしはあなたの人格、姿、事情、環境、誘惑、弱さ、欠乏、働きを刻んだ」と言われるのである。
神がこのようにあなたを手のひらに刻んでおられるというのに、あなたはなおも、主は私を捨てられた、と言うのか。
C.H.スポルジョン「朝ごとに」より
49章をじっくりと読みました。
こんな風に始まります。
2節、主は私の口を鋭い剣のようにし、私をとぎすました矢として、矢筒の中に私を隠した。そして私に仰せられた。
「あなたはわたしのしもべ、イスラエル。わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現す。」
こう切り出す、49章を自分へのことばとして、読むのは、とても難しい。
そして、終り、26節は、こう閉じられる。
わたしは、あなたをしいたげる者に、彼ら自身の肉を食らわせる。彼らは甘いぶどう酒に酔うように、自分自身の血に酔う。
でもスポルジョンはこのことばさえ、個人的に受けとめよと教える。
私は、矢筒のような狭く暗いところで、人生が止まったようになってしまっている、お兄ちゃんのことを考えてみている・・・。