わたしは潤いのない地に水を注ぎ、
かわいた地に豊かな流れを注ぎ、
わたしの霊をあなたのすえに、
わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。
彼らは、流れのほとりの柳の木のように、
青草の間に芽生える。
イザヤ 44:3,4
信者は、自分の感情がいやしくまた悲しむべき状態に陥った時、しばしば自分を暗く陰気な恐怖で懲らしめることによって、そこから逃げ出そうとする。
このような方法は、ちりの中から起き上がるためには少しも役立たず、むしろ反対の結果をもたらす。
求めているたましいを最初に救うのは、律法ではなく福音である。
今朝、あなたは生きておられる神を求めて飢え渇き、心が喜びにあふれるまで主と交わることができないことを悲しんでいるか。
あなたは信仰の喜びを失い、「あなたの救いの喜びを私に返してください」と祈っているか。
またあなたは、自分が渇いた地のように不毛であることに気づき、神が当然あなたに求められる実を結んでおらず、教会においても役に立たず、この世の務めも思うように果たしていないことを意識しているか。
それなら、ここに、あなたがまさに必要としている約束がある。
「わたしは潤いのない地に水を注ぎ・・・」
C.H.スポルジョン 「朝ごとに」より
今朝のLAの空は雨もよう。
そして、 今朝も、スポルジョンは、私に、これ以上はない恵みのメッセージを与えてくれた。
みことばは、神さまの約束。
私は、苦手なことをがんばるのが、すごく苦手です。
苦手なことがないかのごとく、自分の世界を好きなことだけで満たそうと一生懸命に努力しています。
その努力はある程度、神さまの憐れみによって、報われています。
苦手な食べ物はありません。
(あるかもしれないけど、食べるようすすめられたことがありません)
苦手な仕事もありません。
(あるかもしれないけど、上手にできないことを気にしていません)
苦手な季節やお天気もありません。
(ここ、南カリフォルニアでお天気や季節に文句を言う人に会ったことはありません)
でも、苦手な人はいます。
そんな時、私は、どんな努力をするかというと、その人と会わない努力をします。
その人の連絡先から消える努力もします。
その人の人生から消える努力です。
もともと、わりと努力が好きなので、徹底的にがんばります。
もともと、わりと努力が好きなので、徹底的にがんばります。
でも、その努力だけは、神さまは憐れんではくださらない・・・。
一生懸命に祈っているのに、その人の 「With out 私」の人生に神さまの一杯の祝福があるようにと、朝に夜に祈っているのに、でも、その祈りだけは、あんまり、ぱっとした結果をいただけない。
「最初は得意だったけど、だんだん苦手になったから、離婚しましょ」とかそんな大それたわがままを言っているわけじゃないんだから、いいじゃん、神さま、って思うけど、でも、この努力だけは、神さま好きじゃないみたい・・・。