あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。
わたしは主である。
レビ記19:18
イエスは、聖書の中でおもいやりの心について、良いサマリア人の寓話を用いて説明しています。
ルカ書の10節です。
あるユダヤの男が強盗に襲われて、死にかけた状態で道ばたに、捨てられてしまいます。
そこを通りかかった同じくユダヤの宗教指導者は、彼を避けて、通りすぎ、なんと、ふたりめも同じように、彼を見殺しにします。
彼らは、同胞を助けるには、あまりにも忙しくすぎ、あまりにも重要な人物であり、あまりにも、手を聖く保つことに心をうばわれていました。
ところが、そこにユダヤ人に嫌われていた旅の途中のサマリアの男が通りかかり、彼をかわいそうに思い、傷を手当し、自分のロバに乗せて安全な場所まで運び、そして、宿屋の主人に、お金を渡し、『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』と言い残して、旅を続けます。
たとえ、敵対していた者同士であってさえ、それが可能なら、それがあなたの大切な人だったとしたら、いかがでしょう。
The Love Dare より
ここに書かれている、良きサマリア人の話を読んで、日本語の聖書を読んでも、感じなかった痛みを覚えました。
同胞の痛みに手を出せなかったのは、忙しすぎたから、重要なことが他にいろいろあったから、そして、手を汚したくなかったから。
忙しさを理由に何かを断る、何かを無視するって、それに注ぐ愛はないって言っているのと同じだと、イエスは私に語りかけているよう・・・。
同胞を見殺しにしたふたりのお偉いさんは、まるで、家の中の私と同じです。
こわいぐらい、そっくり。
良きサマリア人に憧れる前に、まず、普通の善良な市民になりたい。
私の場合、まず、そこから。
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