Monday, March 2, 2015

花は散り、愛は残る

「人はみな草のようで、
その栄えはみな草の花のようだ。
草はしおれ、花は散る。
しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない」
ⅠペテロⅠ:24,25
私たちは生においてだけでなく、死においても同じく自分を与えるように召されています。
与えるために私たちが裂かれたことが本当だとすれば、私たちの最終的な傷、すなわち死は、自己を与えるという最終的な贈り物の手段になるのです。
私が絶えず驚かずにいられないことは、自分自身の死に備えてよい準備をすることを、この社会が妨げ続けていることです。
そして、ついに自分の死が近づいていることに直面すると、私たちはそれを懸命に否定しようとしたり、途方に暮れたり、さらに、それから逃れられなくなると、怒り出すことさえします。
しかし私たちは、神に愛されている者として生きることを、最後の与える行為である死への準備として信じるように召されています。
私たちは、他の人のために生きるように召されているだけでなく、他の人のために死ぬにようにも召されているのです。
私は死は喪失以上のものだと深く信じています。
私たち愛した人や愛してくれた人の死は、新しい、より根本的な一つとなる交わり、新しい親密さ、互いへの新しい所属の可能性を開きます。
もし、愛は死よりも強いというのが事実なら、死は愛の絆を深め、強くする可能性を持っているはずです。
そうです。
良い死というものがあるのです。
ヘンリ・ナーウェン
いよいよ、ヘンリ・ナーウィンのこの「愛されている者の生活」の中の、最も彼らしい、彼特有の賜物である文章に近づいてきた気がします。
ヘンリ・ナーウィンって誰?って聞かれたら、死を打ち破る命ではなく、死を打ち負かす命でもなく、生と死を包む愛を見つけた人って私は言いたいです。
とても偶然なんだけど、夕べ電話で旬子先生と友だちの死について話しました。
家族の死はおろか、深刻な病気にさえ、今のところ立ち会ったことのない私は、それがどんな感じなのか、全く想像ができずにいました。
私は、つい先日その友だちと一緒に写真を撮ったので、それをプリントしてピアノの上に飾ろうと思います。
そして、ピアノを弾きながら、彼を思い、その日、その時を、神の心のままに悲しみ、そして、喜べるように祈りはじめようと思います。
いつもありがとう。
あなたのためにも祈ります。
アーメン↓