イエスはパンを取り、祝福して裂き、
弟子達に与えて言われた。
「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
マタイ26;26
きびしい競争と貪欲なこの世界で、与えることの喜びに触れる機会が失われているのは悲しいことです。私たちの多くは、幸福は所有することにあるかのように生きています。
しかし私は、持っているがゆえに本当に幸福だという人を誰も知りません。
真の喜び、幸せ、内なる平安は自分自身を他者に与えることから来ます。
幸福な人生とは、他者のための人生です。
まず何よりも、私たちの生それ自体が―私たちはそれをほとんど忘れていますが―与えることのできる最大の贈り物です。
私たちの本当の賜物は自分が何者であるかであって、どれだけ多くのことができるかではない、ということです。
私たちがなすべき本質的な問いは、「私たちは互いに何を提供できるか」ではなく、「互いにとって何者であるのか」です。
私は年を重ねるにつれて、私の提供すべき最大の贈り物は、私の生きる喜び、私自身の内的平和、私自身の沈黙と静まり、私自身の健やかな生活感覚であることにますます気づくようになりました。
私は、どのような人が、私をいちばん助けてくれるだろうかと自分に問うならば、喜んで私と生を分かちあってくれる人という答え意外に見つかりません。
すなわち、友情、親切、忍耐、喜び、平和、赦し、柔和、愛、希望、信頼、その他多くのもの。
これらは、私たちが互いに与え合うべき真の賜物です。
ヘンリ・ナーウィン
賜物は才能よりの大切と、私もだんだんわかるようになってきました。
最初はあきらめるかのようにそれを知りはじめ、でも今では、少しの才能でどれだけたくさんのことをなすかということよりも、神の無限の蔵から無限に受けることのできる賜物で、どれほど、本当の自分に近づくか、(イエスさまの近づくか)について考える方が、よっぽど幸せと思えます。
とても似ているけど、全然違うので、ちょっとの方向の角度の違いで、行き先が全く変わった気がします。
今日は、聖餐式です。
聖餐式にいつもソロでピアノの弾いてくれるピアニストがいるのですが、彼女にピンチヒッターを頼まれて、今日は私が代わりにピアノを弾きます。
取られ、祝福され、裂かれ、与えられたイエスを思いながら、心をこめて弾こうと思います。
アーメン↓