Tuesday, March 3, 2015

死を含めて生きること

私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。
それは、兄弟を愛しているからです。
Ⅰヨハネ3:14
そうです。
良い死というものがあるのです。
私たちは自分の死に方に責任があります。
私たちは次のどちらかを選ばなくてはなりません。
死は、過ち以外の何ものでもないとして生にしがみつくか、あるいは、自由に手放し、希望の源として自分を他者に与えるようにさかせるかです。
私たちは日々の生活で、それを選択する「作業」に取り組まなければなりません。
神に愛されている者の死は、多くの人の人生で実を結びます。
あなたと私は、私たちのささやかな人生が、地上の生涯の境界線をはるかに超えて実を結ぶことを信じなければなりません。
ヘンリ・ナーウェン
日曜日の聖餐式のとき、パンを裂いたその指が熱く感じて、それから、そのパンを唇に運ぶとやっぱりパンはなんだか熱を持っているようで、私は驚いて、悲しくて、うれしくて、涙が一粒こぼれました。
毎朝、ヘンリと、取り上げられること、祝福されること、裂かれること、与えられることについて、学んでいたので、パンが、本当のイエスのからだのように思えて、悲しくて、うれしくて泣きました。
その後、Come,Thou Fount of Every Blessing という曲をピアノで弾きました。
弾きながら、もういちど、涙がこぼれ、音は私の感謝になって、ぽろぽろステージの階段を下りて会衆の足元に転がってゆき、うつむいて祈る彼らの祈りと合わさって、天国に上っていくような幻想の中で、私はこの曲を弾き続けていました。
どうぞ私とここで祈っておられるみなさんを世界のパンとしてお用いくださいと祈りながら、弾き続けていました。
あれほど、気もちが音になったように思えた演奏は今までになかったと思います。
今日も良い日でありますように
アーメン↓