Monday, January 7, 2019

渇かないプレシャー・否・渇けないプレッシャー

昨日の礼拝で、「もし、みことばへの渇きが自分の中のどこにもないなら、そもそもまだ
神を知らないのかもしれない、神とのリレーションシップがまだ始まっていないのかもしれない」というフレーズがあり、かなりがが〜んでした。
それって、ポライトに「あなた救われてないかもよ」ってことでしょ。
私、渇く前に飲んでるのか、飲むから渇かないのかよくわかんないけど、(何しろ一日軽く3リットル)、渇いた〜!と意識することなく、何週間も、いえ何ヶ月も、いえ何年も生きている気がするのです。
昨日、話がそっちに向けられたから、ちらっとゆりかさんにもシェアしたのだけど、週に一度の聖なる安息日を守るので精一杯で、後の6日はその日のために必死に生きている。
必死に聖書を読んで、必死に祈って、必死に働いて、必死に生きている。
渇きを感じる隙も余裕も微塵もない日々。
6日の中で教会で礼拝する、グループで学びする、集まって賛美する、なんて救われて一度たりともしたことないのです。
そして、教会の中で誰かと交わると必ず、そこへのプレシャーがかけられる。
これは、私への神の挑戦なのかな・・・。