Sunday, March 3, 2019

Chapter 5 Forgiving The Unforgivable

互いに忍び合い、
だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、
互いに赦し合いなさい。
主があなたがたを赦してくださったように、
あなたがたもそうしなさい。
コロサイ 3:13
あなたが過去の傷にしがみつくのをやめれば、過去にあなたを傷つけた人たちは、もうあなたを傷つけることができません。
赦すとは、されたこと自体は不当であるにもかかわらず、赦す側の人の痛みをあえて手放すということです。
相手を赦すということは、相手の行為が不適切で、どこから見ても間違っていると十分に承知した上で、償いをするのは当然だと、と思う感情を捨てさることです。
自分の感情とエネルギーを報復に向けるか、解決に向けるか、選択は常に私たちに与えられているのです。
赦すとは、寛容で親切な素晴らしい慈善行為などではありません。
神様が赦しなさい、と言っておられるから、私たちは赦すのです。
スー・オーガスティンの「過去の傷からいやされるとき」より
私が手放したものは、怒りではなく、悲しみだったから、これほどまでの大きな葛藤はありませんでした。
悲しみの内訳は混乱と挫折感だったと思います。
そして、後に、「ちっ」という思いになった、うん、確かに。
でも、「ちっ」から、「さらば」は早かったと思う。
毎朝、祈る祈りの導入部分の3つめに、(1は生きていることへの感謝、2はキリストへの感謝)十字架への感謝があるのだけど、その時に、私は必ず、こう告白します。
「あなたの刺し傷によって私は癒されるました。あなたの砕かれた骨によって私は自由を得ました。あなたの尊い血潮によって私は赦されました。」
だから、癒しを信じないことは、十字架を信じないことと同じであって、逆をいえば、癒しを信じることは悲しい過去は、まるで起きなかったかのように生きることと同じなのです。
★たくさんの楽しい思い出があるけど、これはドレスにたまごを抱えてタイツの足を丸出しのはな