Saturday, May 16, 2015

心配をのりこえて

私たちは愛しています。
神がまず私たちを愛してくださったからです。
Ⅰヨハネ4:19
もし神が、私たちに、愛される価値ある者であることを証明することを要求してきたとしたら、私たちは誰もがみな、惨敗でしょう。
けれども、神の愛は神の選択です。
神は神ご自身の愛で私たちを愛しておられるのです。
だとしたら、神の愛を受けた私たちはそれを、惜しみなく誰かに分け与えるべきではないでしょうか。
もし誰かが、妻に「もう、あなとを愛していないんだ」と言ったとしたら、それは、「最初からUnconditionalには愛してなかったんだよね」と言っているのと同じです。
彼は、神へのCommitmentではなく、とりまく状況や条件により、彼女を愛していたと言えるでしょう。
これは、間違った結婚の選びは、結婚を成就できないという意味ではありません。
フレンドシップやロマンチックな思いで始まった結婚を、アガペの愛という土台に建てあげるのです。
Ⅰコリントの13章7節には「愛は決して絶えることがありません」とあります。
けれどもこの愛は神からくるものであって、私たちは神を離れて、自力では、決して、誰のこともまともに愛することなどできないのです。
そして、その愛があれば、何も恐れることはありません。
愛しているの、だって・・・・と言う必要はありません。
愛している、ただそれだけです。
The Love Dare より
今日のみことばは、この章の中にあったものだけど、私は、ひとつ前の18節の『愛には恐れがありません』ということばの方に、グサッときました。
自分が、真実の愛、神の愛で人を愛せているかどうかは、この恐れがあるかないかで判断できるとしたら・・・。
賢人のプロムのコサージュの話しに戻るけど、あの時、「母さん、作ってよ」と言って、作戦が変更した瞬間から、賢人がいつもの彼の落ち着きを取り戻したことをエリさんが読んで、「それは、神さまへの信頼よね」と書いて送ってくれました。
私が彼のそんな信頼によって、やっとのことで母業、親業をやっていられるとしたら、夫が私からのそんな無垢な信頼を必要としていることは明白です。
そして、結婚していながら、ひとりで生きようとすることは、期待することへの恐れ、愛とは全く正反対の思いを抱えて生きていることを認める一週間となりました。

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