Sunday, May 3, 2015

直系の師匠に打たれた日

キリストご自身が、
ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、
ある人を牧師または教師としてお立てになったのです。
それは聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、
キリストのからだを建て上げるためであり、
ついに私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、
完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
エペソ4:11~13
今日は、この箇所から、『私たちの王に仕えよう』というタイトルのメッセージでした。
王とはもちろんキリスト・イエス、そして、キリストは教会そのものであり、教会とは目に見えないキリストを見える形で現そうとする人々の集合体なのだと説明したうえで、私たちには、必ず、ここに、独自の召しがあるはずなのだと、話しは結ばれていました。
私は、教会の中での私の召しとはなんだろうと考えてみています。
牧師は、ノンクリスチャンはそんなクリスチャンを見ていると言いました。
私も、そう思います。
人の心に最初から備えられている永遠への憧れが、本能的にクリスチャンを通してそれを知ろうとさせている気がするのです。
キリストを信じて真剣に生きること=ミニストリーだと信じていました。
今も、もちろん、そう信じています。
今日は聖餐式でした
裂かれたパン残りを
大切に持って帰ってきてしまいました
キリストのからだです
でも、教会の中に生きる人もいれば、外で生きる人もいるという考えは、今日のメッセージとは調和せず、私にとって、とても大切な教えのヒント、考えるきっかけとなった気がします。
ノンクリスチャンの世界にどっぷりと浸って、そんな中でクリスチャンとして一生懸命に生きることが、この頃、ようやく、少しだけ、上手になってきました。
エジプトに売られたヨセフや、バビロンに留学させられたダニエルの話が大すきで、くじけそうになると、創世記やダニエル書を開いては、「よっしゃあ!」と気合を入れるのです。
でも、私の本当の教師は、ヨセフでもダニエルでもなく、実はパウロ先生なのでした。
なぜなら、彼こそが主イエス・キリストに直接赦され、命がけで私にまで伝道してくれた、私の直系の師匠なのだから・・・。
アーメン

人気ブログランキングへ