Tuesday, May 19, 2015

言語を超えて、高い自己像と生きるセンスを育むこと

保育参観と保護者面談週その②が重なっている、ちょっと気をつかう一週間の2日目です。
カンファレンスは子どもの数が多いところに向けて、アフター・キンダーとかけもちで、保護者に会える時間に制限があるため、幼稚園側の私と保護者への配慮で2回に分けてやっています。
こちらは全く無作為に、っていうか保護者の都合でその①とその②を選んでもらっているのに、その①が日本語環境にどれほど長く漬け込むべきか、そしてより高い自己像を育てるためには、どれくらいを母語環境で守るべきかが中心の話題であったのに対して、その②は日本語が外国語の子たちに、年齢相応な知的発達を日本語の中でどう促し、そして最も重要な、基本的生きる力をどう養っていくかが別々な課題となってしまっていて、私は自分の不足を強く感じています。
日本語が第一言語の子たちにはその両方をまとめてアピールしているのに、日本語が第二言語の子たちへはは、それぞれを分けて話しをしてしまっていることに、違和感を感じずにいられません。
だって、そうでしょ。
本当はよりよく生きるための数だし、よりよく生きるための言葉だし、よりよく生きるための科学、よりよく生きるためのアート。
そんな生きるセンスと、高い自己像は、本当は密接に関連していて同じように育ってゆくべきなのにね。
それで、例えば、私自身がそういう環境に育ったとして、私は親や幼稚園の先生を始めとする周囲の大人に、何を求めるだろうと、考えてみています。
あるいは、神はそんな子をどのように用いるだろうって。

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