Saturday, December 3, 2016

詩篇 23編

主は私の羊飼い。
私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、
いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、
御名のために、私を義の道に導かれます。
詩篇23:1~3
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれる。
御名のために。
キリストというブランドのコートを着て、キリストというブランドの香水をつけて、キリストというブランドのセキュリティー会社が守る家に住んでいる自分を想像してみました。
とてもいい気分です。
御名のために、私を義の道に導かれる私は、ぜひともそうでなければっと思います。
ちょっと前に、ホーリネス教団の牧師がゲスト・スピーカーとして招かれてきた時のメッセージの中で、印象に残っている言葉があります。(たくさんあるけど、それを時々、少しづつ思い出して、「ああ、あれはこういう意味だったのかな」とスルメのように長く味わい続けています)
主からの賜物を用いた奉仕の見分け方として、それが全体の益となっているか、そこを見る、というそんな意味のことでした。
以来、「全体の益」という言葉がずっと心の中にあります。
「全体の益」に焦点をあてて自分の仕事に集中すると、今まで心を惑わしていた、自分にはどうしようもできない、(でも自分の好きでない状況、人の行動)から心からはずれます。
これはとても不思議です。
「全体の益」を考えるなら、問題が見えてきてイライラしそうだけど、その私が問題視しているそこにすら「益を」と考えることができるようになるみたい。
キリストのブランドのコートを着て、キリストのブランドの香水をつけて、キリストのブランドのセキュリティー会社に守られて生きるって、そんな感じがどんどん普通になってゆくことかもしれません。
がんばろう。