Tuesday, December 13, 2016

天国の鍵

神の、目に見えない本姓、
すなわち神の永遠の力と神性は、
世界の創造された時からこのかた、
被造物によって知られ、
はっきりと認められているのであって、
彼らに弁解の余地はないのです。
ローマ 1:20
寒かったね~。
タイツをはいて靴下もはいてブーツをはいて、マフラーまで巻いて、プールサイドで、マタイの福音書から、ペテロがイエスから受けた天国の鍵の記述を読みふけっておりました。
目が疲れてきたので、ローマ法王やバチカン宮殿のことを、インターネットでながめている間にすっかり、明け方見た夢から立ち直り、なかなか良い気分の夜を迎えています。
今夜は港の上に浮かぶお月さまもとってもきれいに輝いています。
このお月さまが何かのはずみで偶然生まれ、無意味に存在していると考える人など、実はどこにもいない。
私は、ノン・クリスチャンが神さまのことを何も知らない人かのように伝道されることにとても大きな抵抗を覚えます。
神の存在を完全に忘れ去れる人なんて、この世界にひとりもいない。
神のお造りになった「人」とはそういうクリエイチャーだと思う。
罪がノンクリスチャンの目を覆って神をわからなくしているのではなく、その狂おしいばかりの神への渇きを癒すために、心の空虚に詰め込まれた偽りの神々への信仰がイエスの名を受け入れ難くしている。
そして、それを罪と呼び、私はまだまだ罪人。
その頭。
心の中に自分でも知らないたくさんの引き出しを持っていて、時々知らない神が顔を出し、私をぎょっとさせる。
本当の意味で恐いことはノン・クリスチャンでいることではなく、罪から聖められよ的な心をもって福音を語り、神の最も嫌悪される傲慢の罪に身を沈めることにあると思う。
願わくは、魚にはなりたくない。
でも、その方がマシということもなくはないかもと思えるようになりました。
よい夜をね。
おやすみなさい。