今朝、はなを学校に送って行く、車の中での祈りで、お兄ちゃんを喪失の悲しみから癒し、贖い出してくださいって、祈ってみた。
お兄ちゃんのための祈りの中で、「喪失の悲しみ」という言葉を使ったのは初めてです。
「失った全てに対するの追憶をあなたに委ね、今日、新しい一歩を踏み出す決心をすることができますように」と。
この世界にはさまざまな悲しみや苦しみがあると思う。
だって、ここは天国ではないのだから。
それで、なぜか今朝、そのことを考えてみました。
それは喪失の悲しみ。
私は、多くのものを失ってきた。
捨ててきた。
それを悲しむ心がないってことほど、悲しいことはないかもしれないって。
お兄ちゃんの悲しみは、天国ではどうかわからないけど、この地上においては、かなり正当な、悲しむべき理由に値する、ちゃんとした悲しみに違いないって。
長年、小さな子たちの中で仕事をしていました。
そこには、悲しむ子と、悲しまない子というのがはっきりとあります。
私もどちらかというと、悲しみ下手です。
これは、賜物と言うにはあまりにも、残酷な悲しみの欠如なので、私は、IQと関連しているとずっと思っていました。(私は自分がこれが低いという自覚がなぜかいつもあるから)
でも、そうじゃないって、今朝、ぱっと思ったのです。
確かに賜物です。
悲しまない賜物ではなく、悲しむ賜物。
お兄ちゃんの悲しみに、少しだけ、近づけた気もちです。