Saturday, April 29, 2017

ルカの福音書 22章

イエスは彼らに、
「誘惑に陥らないように祈っていなさい」
と言われた。
イエス・キリストが地上での生涯の中で言われた、数々の教えの中で、最もシンプルな教えでした。
「誘惑に陥らないように祈っていなさい」
私にとって、これ以上に忘れがちな教えは他になく、でも、これ以上に即・働いてもらえる祈りも他にありません。
祈りはじめたその瞬間から、勝ちに向かって、心が守られていきます。
例えば、何かの葛藤を抱えたまま、祈りながら、1000メートルを目指して泳ぎ始めたとして、葛藤がなくなっているのは、ほんの300メートルとかそこら、いえ、もっと短いかもしれません。
問題は、この教えを忘れるというところにあると思う。
誘惑に囲まれた時、その誘惑が「心配をしなさい」という誘惑だったとして、誘惑が始まって、心配が起きるまで、1秒もかからないというのが現実です。
その1秒で祈り始めることができなくとも、心配は最初から大きな津波のようではないので、さざ波程度の頃に、この教えを思い出せばまだよし。
でも「心配しなさい」という誘惑に身を委ねて、20年ぐらい(例えばね)経った人に会うと、私の人生、つまり私の活動や心の時間配分にまで心配が及び、もう大変です。
「誘惑に陥らないように祈っていなさい」は、主の祈りの中にも折りこまれているけれど、これを、毎朝、祈っているからって、全然足りないことも、また然り。
誘惑がない時に祈ってそれが働かれるのは、土俵にひとりのお相撲さんしかいなくて負けなかったのと同じでしょ、勝ってもいないし。
よし。「誘惑に陥らないように祈っていなさい」は、誘惑を誘惑と認めることからはじめよう。
はっ!と。大きな汗マークのちびまるこちゃんのように。
これは誰の声か!って。
天の声か、地の声か、自分の声か、人の声か。
天以外は、全部誘惑ってことにしてもいいのだろうか。
そこが難しいところです。