隠れているもので、
あらわにならぬものはなく、
秘密にされているもので、
知られず、また現れないものはありません。
ルカ 7;17
神のことばに最初に出会った時、自分の聖書をはじめて手にした時の興奮を忘れることはできません。
なのに、なぜか私は、いつもそれを隠していました。
ベッドの下に隠し、バッグの底に隠し、車のシートの下に隠し、テーブルの上に置きっ放しにすることは決してなかった。
例えば、それは、私がお経の本(そんなのがあったとして)を家の中に持って入ったり、持ち歩いたりしてるぐらい突拍子なく、私という人と関係ない本、読んでいることを知られて、説明するのがやっかいな気のする本でした。
あっちに隠され、こっちに隠されし、私の最初の聖書はわずか半年で擦り切れはじめたほどです。
それが、今では、これみよがしに、開きもしないいろんなバーションの聖書を、(リビングルームにアートバイブルと子ども聖書、バスルームにバイリンガル、車のトランクには無料でもらった新約聖書)をおいて、まるで自分という人、この家がどういう家なのかをアピールしているかのようです。
18節、「だから、聞き方に注意しなさい。というのは持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。」
私、いろんな好きなことがあるけれど、でも、本当に一番好きなこと、夢中になれることは、聖書を読んでそれについて書くこと。
みことばについて考えることが一番好き。
神さまは、私にいろんな「好き」を与えてくださっているけど、私、自分ではみことばを聞く力を、一番祝福されていると思っているんだ。