Wednesday, April 12, 2017

マタイ27章

すると、見よ。
神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。
マタイ:27:51
キリストが、十字架の上で息を引き取った時の地のうめきとさけびです。
神のひとり子が、神への冒涜の罪で処刑されました。
不思議なことにキリストを狂人と言った人は誰もいなかった。
当時も今も、キリストが狂っていたという人は誰もいない。
偉い先生と言い、それがいつしか、行き過ぎた神を冒涜する人にされてしまいました。
これは、すごく矛盾する考え方です。
偉い先生は、どれだけ、悦脱しても、どんどん、自分を偉い先生と呼ばせるだけで、神と名乗るはずがないのに。
知的に人を超えていて、奇跡の業で人々の病をざくざくと癒し、捕らわれた魂をぼこぼこと解放し、天の教えを、まるで見てきたかのように整然と語ったイエスが処刑された本当の理由は、神への冒涜罪などではなく、人々の妬みでした。
でなかったとしたら、キリストは児童書の伝記シリーズで「狂人」として名で紹介されるはず。
でもキリストが狂っていなかったことは、誰もが知っている。
それはつまり、キリストが神の子であったことを(あることを)、みんな心のどこかで、知っていた(知っている)、ということにはならないかなあ・・・。
ただ、自分の思い通りにはならない神だった。
だたキリストの教える天の教えが、あまりにも、律法学者やパリサイ人や偽預言者には悲しかった。いらいらした。むかついた。と。
旧約聖書に異常なまでに精通した、でも悦脱した偉い先生が側にいたとして、「あなたは自分を神としている」と言ったなら、彼がもし、狂人でないなら、「そんなことは決してない」と顔を真っ赤にして怒ると私は思います。
でも、キリストは「あなたの言うとおりです」と言って十字架にかかりました。
さて、彼は果たして、ただの偉い先生だったのでしょうか。