Tuesday, March 7, 2017

ダニエル書 3章

「私たちはこのことについて、
あなたにお答えする必要はありません。
もし、そうなれば、私たちの仕える神は、
火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。
王よ、神は私たちをあなたの手から救い出します。
しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。
私たちはあなたの神々に仕えず、
あなたが立てた金の像を拝むこともしません。
ダニエル 3:16~18
そして、ダニエルはもうふたりの仲間たちと一緒に縛られ、火の燃える炉に投げ込まれます。
25節、「だが、私には、火の中をなわを解かれて歩いている4人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第4の者の姿は神々の子のようだ。」
第4の者って、未来からこられたイエスさまかな。
それとも神の使いかな。
そして26節、「それからネブカネザルは火の燃える炉の口に近づいて言った。『いと高き神のしもべたち。すぐ出て来なさい。』」
誰もが、ダニエルにはなれるわけでは、もちろんないと思う。
ユダヤ人やイスラム教徒が偶像を徹底的に嫌うその「嫌い」と私たちが偶像に対して感じる「嫌悪感」にはものすごい大きな差があることを思い知ります。
飛行機の中で出会った、アメリカ人宣教師でさえ、観光は礼拝ではないとばかりに、神々が奉られてる由緒正しい古い大きな神社を訪れることを楽しみにしていました。
栃木県のある田舎町のキリストの教会に小さな賢人と行った時に石が奉られていたのを見たこともあります。
日本でひとり旅をした賢人から送られてきた写真の多くに、なぜか鳥居が写っていた。
偶像の放つネガティブな力を小さくみているのだと思う。
偶像の持つ美しさや、不思議や、心地良さにはとてもつもないパワーがあって、神はそれよりも大きいけど、私たちはほんのちっぽけで弱い者ということを、忘れてはいけないと思うのです。
(そう言う意味で私はマリア像やイエスがつけられた十字架像も、実はあまり好きじゃない)