Monday, March 13, 2017

ホセア書 6章

私たちは、知ろう。
主を知ることを切に求めよう。
主は暁の光のように、確かに現われ、
大雨のように、私たちのところに来、
後の雨のように地を潤わされる。
ホセア書 6:3
「主は暁の光のように、確かに現れ」。
何が不確かであっても、暁の光は、確かに現れます。
そんな確かさを、この世界に置いて、主は私たちが信じることをあきらめないようにしてくださっている。
規則正しいことやパターンになっていることに安心できる私たちのために。
(でも、知らないことや読めないパターンというのもあるものです。
昨日のイベントのように・・・。
どうして、例えばバレエの「くるみ割り人形」が出演者を募集して、オーディションをするように、趣旨をはっきりと提示して興味のある子どもたちを集めないのかなってしつこく、考える私)
昨日の礼拝のメッセージの中でも思ったけど、たとえ、暁の光が現れなかったとしても、神さまは、いつもおられる。
きっと、そちらの方がよっぽど確かな事実なのでしょう。
ただ、私たちの罪が、告白できていない罪の圧迫が、私たちを覆って、臨在を信じられなくしているだけで。
そして、その告白を妨げているのは、的はずれな価値基準だという他ありません。
礼拝の中で用いられたモニターに映し出されたイメージを見て、本当にそう思いました。
牧師は、私たちが放った的はずれな矢は全て、イエスが受けていると言っていた。
それはまさに、ホセアの痛みそのまんまです。
特にクリスチャンは気をつけなければならないと思う。
自信を持って、矢を放つ、放つ。
あっちにも、こっちにも。
なぜあたらないのか、気づかず、とにかく放つ、ということってよくあると思う。
「がんばっているのに」って言いながら。
私、そうなりがちだから、本当に気をつけなくてはいけない。