Sunday, March 5, 2017

水は泣くため、涙のため

いまだかつて、
だれも神を見た者はありません。
もし私たちが互いに愛し合うなら、
神は私たちのうちにおられ、
神の愛が私たちのうちに全うされるのです。
Ⅰヨハネ 4:12
聖餐式でした。
聖餐の間に水を1リットルほど飲み干しました。
この頃、水の話題が一杯でしょ。
 今朝のダニエル書の前に読んだ、エゼキエルの最後も水だったから。
47章12節、「川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることことがなく、毎月新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。」。
聖餐の終り、祈りがはじまって、飲んだばかりのその水が眼から涙となってこぼれてきました。
確か、「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためです。」という祈り始めだったと思う。
すばらしい祈りだった。
私は、人に祈ってもらうのが本当に大すきなのだと思いました。
私にはメンターはいないけれど、私はメンターによる古い傷跡を持つものだけど、主が、毎週の礼拝の中で、私のために祈ってくれる。
だから、今はイエスさまが私のメンター。