本日、プールはクローズでした。(たぶん、メンテナンスのため)
でも、来ちゃったし、水着になっちゃったし、はなのお迎えまで、時間もあるし、ってこ
とで、サウナにいりびたり、たっぷりと祈ってきました。

動く車窓もなければ、音楽もなく、ほどよくつかう無意識の神経も運動もなく、だから、次から次に祈れない代わりに、ひとつの祈りが深く、そして深く。
★唐突に聞こえるかもしれないけど、クリスチャンにとってキリストの守りを信じることや、誰かをキリストの愛で愛することって、何をするよりも幸福感とか、平安とか、臨在を感じることのできることだと思う。
何をいまささらって言わずに聞いてほしいのだけど、私たちは、救われても、日々渇き、そしてさらに渇き続けるから、だから、時々、Yのプールのように、誰にも会わずに、主にメンテナンスされる必要があると思う。

★昔、とってもお世話になった人がいて、そのことをすっかり忘れていて、私、無神経になにもお世話にならなかったかのように振舞っていた。
でも、よ~く考えてみたら、今の私は、そこから始まっていた。
これを、神の計画の成就と言わず、なんと言うと、自分に激しくつっこみます。
私のように、のっぴきならない者に、目をとめてくれる人がイエスの他にもいるって、実はとってもすごいこと。