主は私に仰せられた。
「これらの骨に預言して言え。
干からびた骨よ。主のことばを聞け。
神である主はこれらの骨にこう仰せられる。
見よ。わたしはおまえたちの中に息を吹き入れるので、
おまえたちは生き返る。
エゼキエル 37:3,4
谷間の真ん中の、殺された全イスラエルの骨の山に向かって、主が息を吹き入れ、主が生き返らせる、あのシーンです。
でも、「これら骨に預言して言え」と主をエゼキエルに言う。
ずっと、言ってきたけど、ここでもそう言います。
そして、骨はエゼキエルの預言の言葉の合図で、大きなとどろきをあげて、互いにつながり、筋と肉をつけ、皮膚をまといます。
学校では、たとえ、アフター・スクールでも電話で遊ばない約束をしています。
他の女の子たちはみんな電話はバックパックの中か、ポケットの中で、誰も手にしていません。
それで、はなを囲んで、はなが遊んでいる電話を覗き込んでいました。
約束は約束なので、今日は一日、電話を私が預かっています。
はなを約束の守れない子と思ってしまっています。
昨日は、一言、そう言葉にもしてみました。
言いたくなかったけど、一言だけ。
子どもに人格に関わる否定的な言葉をかけるのは、「のろい」と同じと知りつつも。
「約束をやぶられて、ママは悲しい」と数え切れないほど言ってきたので、アプローチを変えてみたのだけど、やっぱり効果はなく、ただあの子を傷つけただけだった。
親は子どもの預言者だと思う。
奇跡を起こすのは主だけど、それを預言するのは親なのに、上手に言えずに時々、すごくお互いを傷つけあってしまいます。
見ていないと、こっそり約束をやぶるはなを信じなくすれば、傷つかないけど、でもそんなことできないし、約束を守れるようになってほしいです。